- 両宗教とも神の存在を認識し、受け入れる。
- 両宗教とも体のよみがえり、死後の生活を信じる。正しい人は天国に、悪者は地獄に行く。
- 両宗教とも神だけが知る一大異変の「裁きの日」が突然訪れる事実を認めている。
- 両宗教とも神の恵みによってのみ、ゆるしが得られることを信念としているが、キリスト教では、救い主を心から信じることによる救いを強調する。
- イスラム教では、ゆるしを得るには、たゆまない人間の自己抑制が必要とされ、神に仕えることは、善行(特に祈りと慈善)を意味する。「それで秤が(善行のため)重い者たちは、至上の幸福をえる。また秤が軽い者たちは、魂を失い、地獄に永遠に住む。」(スラ23:102-103)一方聖書は神の恵みを強調する。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エペソ2:8-9)「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(テトス3:5)
- キリスト教は、イスラム教が伝える「情け深く、慈悲深く、寛大で、人間を守り、許し、必要なものを提供し、罪を告白した罪人を受け入れる準備ができている」という神像に同意するが、神との永遠の命は、イエス・キリストを受け入れることでのみ確実に与えられる信じる。
- キリスト教では、すべての人間の正義は、神の前では雑巾に等しい。「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。」(イザヤ64:6)アダムとイブが犯した現在により、どんな善人も罪の状況にあり、神から離れている。「罪からくる報酬は死」(ローマ6:23)であり、神の前にはどんな人間も十分ではない。神の前に罪のない姿で立てるのは、この世界の罪のために命を落とした子羊イエスだけであり、救いは、神の御子、十字架で死んだイエスを通して与えられる神からの無償の贈り物である。「神は実にそのひとり子をおあたえになるほど、この世を愛された。それは神を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ3:16)
- 両宗教とも、自然の中に神の力とその実在を認める。神は、この世界の創造主として崇められる。
- 両宗教とも、預言者に相談したりアドバイスを求める。コランの中で、モハメドはエジプトやロト、ノアを突然襲った大災害のことだけではなく、ヨセフやバプテスマのヨハネ、ダビデ、ソロモン、イエスについても触れている。
- 両宗教とも、神への祈りを必須とする。メッカ・スラでは、朝晩の祈りと、夜に捧げる個人的な祈りについてしか触れていないが、イエスは「主の祈り」を通して、どのように祈るべきかを教えている。
- 両宗教とも、慈善を勧める。マラキは、什一献金について語り、新約聖書では、喜びを持って捧げることが語られている。またイエスは、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」と言って、旧約聖書の献金の習慣を追認している。
- コーラン4章136節は「あなたがた信仰する者よ,アッラーとかれの使徒を信じなさい。また使徒に下された啓典と,以前に下された啓典を信じなさい。凡そアッラーを信じないで,天使たちと諸啓典とかれの使徒たち,そして終末の日を信しない者は,確かに遠く迷い去った者である。」と説明。イスラムの神は、「唯一の神」を意味するアル=イラーフの短縮形でアラーと呼ばれる。神に関する「最も美しい名前」として「聞く者」「予言者」「恵みを与える者」「許す者」「看守」「指導者」など99種類の名前がある。イスラムの神の性質を現す有名な「王位の聖句」(スラ2:255)は、キリスト教も同意する内容である。「アッラー,かれの外に神はなく,永生に自存される御方。仮眠も熟睡も,かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは,かれの有である。かれの許しなくして,誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの),以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外,かれらはかれの御知識に就いて,何も会得するところはないのである。かれの玉座は,凡ての天と地を覆って広がり,この2つを守って,疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。」
- 両宗教とも天使の存在を信じている。コラーンの天使は、神のメッセンジャーとして登場。聖書に登場するミカエルとガブリエルは、コーランにも見られる。コラン81:19-21にあるように、ガブリエルは、「本当にこれは、高貴な使徒のアッラーからの言葉。かれは玉座の主の御前で座につく、力のある、従われ,信頼される(使徒である)。」として認識され、モハメドにコランを伝える人物として描かれている。また聖霊により、処女マリアにイエスの誕生を告げ、イエスを強めたと三度書かれている。
- 両宗教とも悪魔の存在を信じているが、イスラム教では堕天使というよりも、反抗的な精霊として捉えられている。精霊は、人間と同じように創造されたものであるが、土からではなく火から造られた。信じる精霊と信じない精霊がおり、信じない精霊たちは、人間と一緒に裁かれ地獄に送られる。反抗的な精霊(シャイタン)は、人間に魔法を教えたり預言者に逆らうことを教える。彼らは天国での会話を盗み聞きしようとするが、流れ星に追いやられる。シャイタンあるいはイブリース(大悪魔)は、アダムを礼拝せよという神の命令に逆らったことにより、天使の地位から追いやられた。このためにシャイタンは呪われたが、よみがえりの日までその呪いは休止され、人間を誘惑する機会を与えられている。
キリスト教同様、イスラム教では、「またアッラーと一緒に,外のどんな神にも祈ってはならない。かれの外には,神はないのである。かれの御顔の外凡てのものは消滅する。裁決はかれに属し,あなたがたは(凡て)かれの御許に帰されるのである。」(コラーン28:88)として、神は永遠から永遠への存在と理解されています。しかし神の性質に関して、イスラム教とキリスト教では意見が分かれており、キリスト教が三位一体の神を信じているのに対し、イスラム教はこの考えを否定しています。「本当にアッラーは,(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことに就いては,御心に適う者を赦される。アッラーに(何ものかを)配する者は,まさに大罪を犯す者である。」(コラーン4:48-49)
コラーンでは、モハメドを神の警告と救いのメッセージを伝えるように選ばれた人間として描いています。彼には自分に示された以外の事実を知る超人的な知識はなく、奇跡的な力も与えられていません。
メッカ版のコーランにも、メディナ版のコーランにもイエスの話が登場しますが、イエスの神格やイエスの誕生そして彼が行った奇跡については否定しています。イエスは神でも、神の御子でもないというのが、彼らの主張です。また、イエスが奇跡によって母の胎に宿ったことは認めていますが、聖書が語る処女受胎は否定しています。アダムが土から造られたように、イエスも神によりマリアの胎に造られたという見解です。
聖書に「御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」(ルカ1:35)とある一方で、コーランは、「マルヤムの子マスィーフ・イーサーは,只アッラーの使徒である。」(コラーン4:171)と言っています。
イスラム教では、イエスの十字架での死は、単なるユダヤの寓話として捉えられており、彼に良く似た人物が代わりに十字架で死んだと信じられています。イスラム教のインジール(福音、伝道の意)は神の啓示として受け入れられ、モーセのトラやダビデの詩篇、コーランなどと同等に考えられています。
福音書に書かれているように、イエスは自分の神格を一番明確に伝えた人物です。「イエスは彼らに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」」(ヨハネ8:58)イエスがこう言った後、ユダヤ人は彼が自らを不滅の存在と言っていることを理解し、「そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」という事件が起きました。
ヨハネ1章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」とあります。ヨハネ1:14は「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」と続きます。イエスは人となり、私たちの内に住まわれた言葉なのです。
ヨハネ10:24-30は、さらにイエスの神格について話しています。「ユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、『いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい。』イエスは彼らに答えられた、『わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである。』
するとイエスは彼らに答えられた、『わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか。』ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである』。」
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
「それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。」
(ヨハネ5:23)
黙示録11:15には、「第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう』」とあり、主とキリストが同等に扱われています。
キリスト教の三位一体の第三神格は聖霊です。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。(ヨハネ4:24)「そこで、ペテロが言った、『アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。』」(使徒行伝5:3-4)
キリスト教は、イエスの復活も重要視していますが、コーランは「彼らは十字架にかけたのでも、殺したのでもなく、そのように見えただけに過ぎない」と言ってイエスの復活を受け入れていません。イエスはアダムの原罪に汚されていない罪のない存在であり、死の呪いを免れることができました。罪のない存在は神だけであり、イエスだけが神と同一の罪のない存在でした。このため、死はイエスを墓にとどめておくことはできなかったのです。復活の証拠は、本ウェブサイトの「キリストの神格に関する有力証拠」内の「最高のしるし-イエスの復活」に詳しく書かれています。
新約聖書は、「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた。」と言って、イエスの死を明確に記述しています。
モハメドの証言は、キリスト教で同様の事件が起きた600年後にかかれていますが、福音書は、目撃者あるいは目撃者からそれを直接聞いた人々の手によって書かれており、現存する証拠は、すべてマタイ、マルコ、ルカの福音書が事件発生から30年以内に書かれていた事実を示しています。この期間では、彼らの記述に反意を唱えるような人々も生きていたはずであり、そこに嘘があれば、こうした人から猛烈な反対にあったことでしょう。
